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毎年、ドラフト会議の時期になると、思い出す選手がいます。
それは柴田章吾(愛工大名電→明治大→読売ジャイアンツ)さん。
明大在籍時の2011年ドラフト会議で巨人の育成3位に指名された元プロ野球選手です。
当時同じ大学のスポーツ新聞部の野球部記者だった私が、彼が二度目の夢を叶える瞬間を目の当たりにしたときのことを、初めて文章に書き起こしてみました。
拙い文章ではありますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
目次
一役有名になった高校時代
愛工大名電の柴田章吾。
高校野球ファンなら、知っている方も多いと思います。
厚労省指定の難病・ベーチェット病を患いながら甲子園に出場し、その軌跡は本になっていたり、地元の24時間テレビでも取り上げられました。
2011年のドラフト会議後のテレビ番組「お母さんありがとう」にも出演。
その際も、ベーチェット病を患い、病に苦しんだり、お母さんに辛く当たったりと病気と戦う様子が流れ、泉ピン子さんをはじめとする芸能人のみなさんも涙涙。
スタジオが感動の空気に包まれました。
でも、今回私が伝えたいのは、病気と戦って甲子園に出た、すごい選手がいるってことではありません。
もちろん、それもスゴイですよ!
私が彼を知って、ファンになったきっかけは高校時代のエピソードですからもう胸を張ってすごいと言いたいです!
でも、難病でも甲子園に出たことに負けないぐらいの奇跡が起こったのが、大学でのドラフト指名だと思っているんです。
順調デビューから一転、苦しんだ大学時代
甲子園に出たぐらいなら、プロにだって入れるだろうって思うじゃないですか。
東京六大学の名門・明治大ならなおさら。
最初はそうだったんです。現広島の野村祐輔投手とともに1年春からリーグ戦デビュー。
このまま順調にいくのかなと私も思っていました。
でも、その後は腰痛、度重なるイップス、外野手への転向、、、。
リーグでの登板どころか、ベンチ入りすらないシーズンも。
プロに指名される選手は大体、4年生の春までの成績で決まります。
しかし柴田さんは、ラストチャンスである4年の春も、打者二人に2つのフォアボールを出してシーズンを終えていました。
少年野球で全国優勝しているような選手ですから、素質・才能は十分。
でも、六大学リーグで規定投球回に達したことはなく、プロはおろか、社会人ですら野球を続けるのが難しい状況でした。
当時、私は同じ大学のスポーツ新聞部の野球部記者として、公式戦はもちろん、オープン戦や練習、合宿にも足を運び、取材をさせていただいていました。
何度か柴田さんご本人からお話を聞かせていただいたこともあります。
高校時代から彼のファンだったので、大学に入ってからも、柴田さんの活躍が見たい!柴田くんの記事が書きたい
柴田さんなら絶対やってくれる!と陰ながらずっと応援させてもらっていました。
そのぐらいファンである私の目にも、プロ野球選手になることは厳しいだろうことは明らかでした。
⬇これは、最後の願いを込めて、当時私が書いた記事です。
きっかけは巨人とのプロアマ交流戦
転機となったのは、4年秋(最後のシーズン)の前に行われた巨人とのプロアマ交流戦。
3回を投げ、すべて三者凡退に抑えました。
現地で私も観戦していましたが、制球難に苦しんでいたとは思えない堂々とした投げっぷりでした。
このときのピッチングが巨人のスカウト陣の目に止まったのです。
目の当たりにした奇跡
プロ志望届を提出したチームメイトの野村、島内(現楽天)とともに、迎えたドラフト会議当日。
エースの野村が広島カープから1位で指名を受けてから3時間が経過し、少し諦めの雰囲気すら出始めていたその時。
「読売 柴田章吾 投手 明治大学ーー」
育成3巡目での指名があった瞬間、寮で見守っていたチームメイトからその日一番の「おぉ〜!」という歓声が上がりました。
現場に取材に行っていた新聞部の後輩によれば、柴田さんの指名を泣いて喜ぶ選手もいたそうです。
私は、紙面の作成のため日刊スポーツに入って、指名の行方を確認していました。
何度も速報画面をリロードして、全球団の指名が終わる最後まで見守ろうという気でした。
指名を受け、泣きながら、パニック状態になりながら慌てて編集長に報告しに行き、新聞の欄外に柴田さんの指名についての記事を入れるよう指示がありました。
震えながら文字を打ち込んだことを今でもよく覚えています。
全然すんなり文章が出てこなかったです(笑)
落ち着いた頃、「柴田くんは、また夢を叶えたんだなあ;;すごいものを見せてもらったなあ;;」と感動と感謝の気持ちでいっぱいになりました。
なぜ柴田章吾は夢を2度も叶えられたのだろうか?
なぜ、柴田さんは2度も、絶望的な状況から這い上がって夢を叶えられたのでしょうか。
一つは、彼についての本のタイトル「あきらめない限り、夢は続く」のとおり、どんなに絶望的な状況でも諦めなかったこと。
甲子園に出たい選手もプロ野球選手になりたい選手もいっぱいいます。
そのために努力する選手もたくさんいますよね。
でも、ベーチェット病になったことや、進路が決まる4年の春まで結果や成績を残せてないという彼のような状況で、諦めずに目標に向かって努力できる人ってどのぐらいいるんでしょうか。
そこでも踏ん張れるのが、彼の凄みであり、夢を叶えた秘訣なのだと私は思います。
もう一つは、後ろ向きな状況でもプラスの言葉を使って、前向きに考えること。
詳しくは、『あきらめない限り、夢は続く』(田尻賢誉著)に記載がありますが、発症当初悪い方へ悪い方へ考える入院中の柴田さんに、お母様が伝えた言葉がきっかけで変わったといいます。
「何かイヤなことがあったときには『ありがとう』、良いことがあったら『感謝します』と口に出すことで、ツキを呼び込める」
『ツキを呼ぶ魔法の言葉』(五日市剛の講演筆録)より
半信半疑ながらお腹が痛くなっても「ありがとう」「感謝します」と言っていたら、不思議と痛みが引いたことがあったそうです。
以来、プラスの言葉を口にし、前向きに考える習慣がついた柴田さん。
この習慣があったから、どんなに現実が厳しくても、最後まで諦めずに立ち向かうことができたのではないでしょうか。
彼は今何をしているか?
そんな柴田さんですが、巨人での選手生活は3年で幕を閉じました。
1軍での活躍は叶いませんでしたが、最新のインタビューでも「後悔はない!」と明言しています。
選手引退後は球団職員として1年間働いた後、一般の大学生が行うようないわゆる”就職活動”を行い、アクセンチュア株式会社に入社。
3年半のコンサルティング経験を積んだのち、2019年に起業しNo border株式会社を立ち上げ、代表取締役を務めています。
事業はスポーツブランディングとコンサルティングの2つを柱とし、「海外との橋渡し役を担い、国境を越え、国籍の垣根を超え、より多くの人々を笑顔にすること」を目指しています。
最近では、フィリピンのスラム街「Smokey Mountain」で暮らす子供たちに野球を教え、高校・大学に通う奨学金の獲得に向けてサポートするプロジェクトを行うなど、世界を舞台に活躍されています。
プロジェクトにはラミちゃんポーズでお馴染み、ヤクルト・巨人・DeNAで活躍、DeNAでは監督もつとめたアレックス・ラミレスさんも参加されるんだとか。
⬇柴田さんのInstagram
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⬇会社のホームページ
⬇プロジェクトのボランティア案内サイト(Smokey Mountain Baseball Project)
Philippines Smokey Mountain Baseball Project
気になる方はぜひチェックしてみてください!
さいごに
この記事を書くにあたって、あらためて「あきらめない限り、夢は続く―難病の投手・柴田章吾、プロ野球へ」(田尻賢誉著)を読み返しました。
そして、10年以上たった今、すごく響いた箇所があったので紹介します。
自分が何歳になっても、就活ができるような生き方をしたいと思います。38歳になっても、50歳になっても、自己分析、自己アピールができる人間。アピールするものがずっと昔の話ではなくて、今こういうことをやっているんだと自分が誇れるものがあるような人でいたい。
あきらめない限り、夢は続く―難病の投手・柴田章吾、プロ野球へ (新潮文庫)
ドラフト指名後、入団前にこう語っていた柴田さん。
華々しいプロ野球選手を引退後も、起業家として活躍する姿はまさにこの通りだなと感じました。
またまた有言実行していて、つくづく素敵で、憧れます…。
私も、誇れる自分でいたいなと強く思いました。
嫌なことがあっても「ありがとう」、良いことがあったら「感謝します」。
そして諦めない!
あらためて教えてもらいました。感謝します!!
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
関連書籍
⬇ドラフト指名後に内容を一部追記したものが文庫版です!
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⬇この本の第3章にも柴田さんのことが書いてあります!